強大だったローマ帝国は、その重圧に耐えかね、東西に分裂した狂乱の4世紀末。滅びゆく巨人の命脈を、ただ一人で支え続けた男がいた。
彼の名はフラヴィウス・スティリコ。
「蛮族(バルバルス)」の血を引きながらも、誰よりもローマ人として生き、ローマの守護者となり、そしてローマに裏切られた悲劇の将軍の生涯。
彼こそが「最後のローマ人」である。
昇格:皇帝の一族
スティリコは、当時ローマ人が「蛮族」と見なしたヴァンダル族の父と、ローマ人の母の間に生まれた。正確な生年はわかっていない。
ローマ帝国が日々蛮族の襲撃に悩まされる中、東の大国ペルシアとの不可侵協定という非常に重要な任務を実行し成功に導いたのがスティリコが二十三歳の時。彼はこうして史書に初めて登場したのであった。
当時の最高権力者テオドシウス大帝は、彼を「皇帝護衛隊長」に任じ、その功績に報いた。それに加え、破格にも自身の(姪を養女にした)娘であるセレーナを妻として与えたのである。スティリコは帝国の権力の中枢、すなわち皇帝の「家族」となったのである。
柔軟性と毅然とした態度、慎重さと大胆さを合わせ持ったスティリコと、イベリア生まれの理知的な美女セレーナの仲は良好だった。一男二女をもうける。
息子のヘラクリウスは、岳父であるテオドシウスの次男ホノリウスと同年輩だった。母を亡くしていたホノリウスと共にセレーナの元で、勉学に体育に、ともに学び合う親友となった。
継承:半蛮族(セミ-バルバルス)
スティリコが二十八歳の年、西の皇帝グラティアヌスを殺した帝位簒奪者マクシムスとの戦闘で一翼を任される。その後、西ゴートとの戦闘にも参戦した。彼の活躍は目覚ましく、両戦闘ともにスティリコの功績によって勝利を収めたのだった。これらによる実力の証明は、帝国全土を転戦し軍事に精通していたテオドシウスが、スティリコの才能を見抜いていた証拠でもあった。
スティリコ三十一歳の時である。軍司令官の一人に昇進する。これは、皇帝の別働隊として軍を指揮することも多い、非常に権力のある役職である。こうも出世されては、帝都コンスタンティノープルに「若き半蛮族(semi-barbarus)」に反感を持つ宦官(去勢された皇帝の側仕え)達が多く現れるのも当然であった。しかし、それらの男達の嫉妬や陰謀は、妻のセレーナの機転によって大事にはならずにすんでいたのであった。
西暦395年、テオドシウス大帝が崩御。死の間際、大帝はスティリコの手を握り、まだ幼い二人の息子と、帝国の未来を託した。
「帝国を、我が息子たちを頼む」
この呪縛のような遺言が、スティリコの過酷な運命の幕開けになるのであった。
憂慮:軍総司令官
スティリコは「マギステル・ミリトゥム(軍総司令官)」として実質的な統治者となった。しかし、彼を待ち受けていたのは、内憂外患の地獄だった。
スティリコが締結したペルシアとの不可侵協定はまだ生きており、また、蛮族の侵攻もガリアを中心とする帝国の西側に集中していたため、スティリコは本拠地を東のコンスタンティノープルから西のミラノに移した。そこには、年少の皇帝ホノリウスと妻のセレーナも帯同していた。東側のローマ帝国は、年長の皇帝と官僚上がりの宰相ルフィヌスに委ねられた。
テオドシウスの死から三ヶ月と経っていないその時、同盟部族であった西ゴート族は早くもローマ帝国に反旗を翻す。西ゴートの王アラリックは、スティリコと精鋭部隊がいる西側を避け、帝国の東側のバルカンに攻め入ってきた。
侵攻:西ゴート族
女子供に老人も引き連れての西ゴート族の移動は、軍隊の進軍とは一線を画していた。軍隊は指揮官の命令に従い、整然と進軍をおこなう。軍規を乱せば重い罰則が加えられるのが常だ。対して民族の移動は指揮統制が効かず、むしろ兵士たちよりも陰湿・残酷化しやすい性質を持つ非兵士達の行動が、凄惨な侵略模様へとつながっていく。西ゴート族の侵攻は、数々の街を破壊し、略奪し、バルカンは火の海にしていった。
スティリコとアラリックは知らない仲ではなかった。それは旧皇帝テオドシウス下で、お互いに軍を率いて戦った、言わば戦友であったからだ。アラリックの生年は分かっていないが、没年から逆算してスティリコと同年輩であったろう。アラリック侵攻の報告を聞いたスティリコは、すぐさま軍を率いてバルカンへと向かった。
スティリコの軍団がアラリックを捉えたのは、アドリア海に面するサロナエの町付近である。圧倒的に大軍を擁していたのはアラリックの方だった。しかし、スティリコも精鋭を率い、更にはアラリックの戦い方も熟知している。戦闘が始まると徐々にローマ軍が優勢になり、終わってみれば多くの死傷者を出しながら敗走しているのはアラリックの方だった。
指令:東側の皇帝
アラリックを討ち取るため、一旦軍を休め援軍を待っていたスティリコに東の皇帝からの指令が届いた。兵士たちは先日の戦勝に逸り、出撃の命令を今か今かと待っている中での指令である。しかし、スティリコは激怒する。
「あの臆病者めが!」
スティリコはアラリックの追撃を取りやめた。皇帝からの指令にそう指示されてあったからである。いや、皇帝からではない。指令を書いたのは、宰相のルフィヌスである。しかも、軍の半ば、旧皇帝テオドシウスが編成した精鋭部隊を東側のコンスタンティノープルへ送り、残りの半ばのみを率いて西側に戻るように指示も書かれていた。
スティリコを崇敬する兵士たちの頭には、あることがよぎっていた。軍事の分からない宰相ルフィヌスと、政治に関心を示さず宮廷で宴に惚けている東の皇帝を廃し、スティリコが立つべきであると。実際、スティリコにはその権力があり、能力もある。スティリコが命ずるならば、命が果てるまで付き従うと。
スティリコは、自身の幕舎に側近のゴート人ガイナスを呼び入れた。兵士たちは固唾を飲んで次の指示を待っていた。
スティリコの死後、ローマは狂気に陥り、彼の部下たちの家族数万人が虐殺された。行き場を失った数万の兵士たちは、激怒してアラリックの元へと走った。
もはや、ローマを守る盾はどこにもいなかった。
スティリコの死からわずか2年後の西暦410年、アラリック率いる西ゴート軍により、永遠の都ローマは蹂躙された(ローマ略奪)。
歴史家ギボンはのちに、スティリコを「最後のローマ人」と評した。彼が死んだその日、西ローマ帝国の実質的な命脈もまた、絶たれたのである。